金子神社



御祭神 素盞鳴尊(スサノオノミコト)
経度 35°49′01″
緯度 139°20′23″
標高 177m
坂東の武士団の武蔵七党の内、桓武平氏から出たと称する村山党村山氏の分かれが金子氏である。
村山氏が狭山丘陵を忠心に栄えたのに対し、金子氏はその西側に奥多摩方面へ連なる金子丘陵あるいは加治丘陵とも呼ばれる丘陵地帯を本拠に繁栄した。
村山党は保元元年(1156)保元の乱に源頼朝の父義朝に従って戦っているが、おそらく前年に相模の悪源太義平が南坂東の在地武士を糾合して、北坂東の源義賢や秩父重能を比企郡の大蔵館に急襲したとき以来、源氏方へ着いたのであろう。
平治の乱に敗れて源氏が逼塞し、頼朝蜂起にいたる以前、村山氏は懇志を運んだとして村山七郎頼直の本知行所を安堵されたと『東鏡』治承五年(1181)五月の記事にある。『武蔵七党系図』はこれを金子氏の始祖金子六郎家範とする。その子の金子十郎家忠は保元の乱以来源氏に従い、義経の平氏追討等数々の戦功を挙げ、本領金子郷のほか、播磨国斑鳩荘・伊予国新居郷などに地頭職を得た。
金子丘陵南麓の字木蓮寺の瑞泉院には金子家忠はじめ一族累代の宝篋印塔が祀られてあるが、その元は近くの白髭神社と伝える。もっとも現在は瑞泉院の堂宇はなく、広大に開発されたな霊園の中の木立の下にある。
ここから西側の西三ツ木の山中に金子神社があり、金子氏の氏神社といわれる。また西三ツ木から十粁ほど北東の狭山市にも東三ツ木という地がある。『新編武蔵風土記稿』の狭山の三ツ木について記している。正慶(1332〜1334)の頃、北条高時禅門の徒金子和泉守国重というもの没落して、郡中金子領三ツ木村へ落ち来たりて氏を三ツ木と改め、氏をもって村に名付け、郡中に三ツ木両村あり、という。
正慶年間とは建武の前年にあたり、鎌倉幕府が滅んだときである。執権北条高時に仕えた金子国重は、近隣の加治左衛門入道家貞が得宗家の御内人として新田義貞と戦って戦没したように、敗軍の将として帰郷し、金子から三ツ木へ変名せざるを得なかったのではないか。金子神社を祭ったのは三ツ木の名主三木氏と伝えている。
金子丘陵の北麓は丹党加治氏の勢力圏と見うけられるが、金子神社の先へ丘陵の山道を越えて行くと、元加治や仏子へ出られ、金子家忠の弟の餘一親範の創建した瑞泉院の末の萬齢院改め高正寺がある。
宝篋印塔を祀る字木蓮寺は東京都青梅市との県境に近いが、青梅市郊外の霞丘陵にある塩船観音の堂舎や仏像を金子氏は度々を修復している。
青梅は多摩川の上流奥多摩の入口だが、そこから近い金子氏の流れが多摩川を下って調布にも住んでいた。
素 盞 鳴 尊
(スサノオノミコト)
日本神話のヒーローといえば、このスサノオノミコト。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治といえば、聞き覚えのあるかたも多いのでは・・。天照大神の弟。しかし姉の存在をおびやかす乱暴ものでもありました。姉との誓約(うけひ)では互いに三人の子を作って和解したかに見えたが、高天原で悪事を働いて姉を困らせます。こまった天照大神は、天岩戸に隠れてしまい、世界は太陽を失った暗黒の世界となってしまうのです。なんとか、その危機を救った神々に、爪をはがれ神の世界から追放させられてしまうのです。ところが、地上に降り立ったスサノオノミコトは今度は一転、正義のヒーローとして活躍します。人を喰らい大暴れするヤマタノオロチに娘をさしださなければならずに泣き悲しむ老夫婦に出会い、その人身御供と
なった稲田姫の美しさに心引かれたスサノオノミコトは、大蛇退治をかって出ます。おいしい酒をたらふく飲ませ、よった大蛇をみごと退治して、稲田姫とも結婚してしまうのです。この時に詠んだ歌が日本最古の和歌といわれています。「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」こうして一躍地上では英雄となった神様なのです。ところで、この地上とは日本の出雲地方といわれ、スサノオノミコト伝承が多く残る土地であり、古代出雲地方を治めていた権力者像がスサノオノミコトとも考えられます。となると、古代天皇家天照大神に対して古代出雲地方は巨大な勢力として対抗していたことになります。九州に降り立った天皇家勢力と出雲に君臨するスサノオウノミコトの勢力は、後の国譲り神話にいたるまで、神話の世界に見え隠れしてきます。
スサノオノミコトを奉ってある神社といえば、スサノオと同一神といわれる牛頭天王を奉っている八坂神社。祇園さんといえばスサノオノミコトということになります。その他に氷川神社にも奉られています。
金子神社の元は、八坂神社であったが、明治9年に金子神社と改称された。


